2 特別攻撃隊の本質とは何か(続き)
(4)もうひとつ指摘しておくべきこと
ア 特攻は兵器としても効果的なものではなかった
(ア)通常兵器より効果は低かった
また、もうひとつ誤解を解いておくべきであろう。それは、通常兵器よりも特攻兵器の方が兵器としての効率が良かったわけではないということだ。特攻に関する文献を見ると、特攻は通常兵器よりも効率が良かったということを前提としているものがあるが、それは誤りである。
それは、兵器としての性能の比較という、人間性を離れた“合理的”な判断から生まれたものではなかったのだ。
(イ)甲標的の戦果はほとんどなかった
第二次大戦で使用された最初の特攻兵器は、真珠湾攻撃に用いられた甲標的(特殊潜航艇)であろう※1。軍令部は、大々的にその戦果を報じたが、実際には“戦果”を上げたのは航空部隊であり、甲標的はほとんど戦果を上げていなかった※2。
※1 厳密に言えば、これは特攻兵器ではない。生還の可能性があり、攻撃の間、潜水艦が乗員の回収のために待機していたのである。しかし、現実には生還できるなどとは誰も思っていなかった。なお、10人の隊員中1名は捕虜となって戦後も生存している。
※2 2009年12月8日四国新聞社記事「特殊潜航艇の真珠湾雷撃成功か/米専門家が分析」によれば、オクラホマを沈没させた可能性が高いとされているが、実際のところは真偽不明というところである。
(ウ)ベニヤ板の特攻兵器“震洋”
また、知覧特攻平和会館にもレプリカが展示されている震洋は、2人乗りのベニヤ板で造られた水上の小型の特攻艦である。ほとんど確実な戦果は報告されていない。震洋は自爆用の火薬類を別とすればほとんど武装しておらず(初期型は非武装、後期型は機銃と噴進砲(小型ロケット砲)を備えたが、揺れる洋上ではほとんど役にたたなかっただろう)、非武装の商戦に対する通商破壊戦ならともかく、武装した軍艦相手に戦果を上げることなどあり得なかった。
(エ)“熟練”することがあり得ない兵器
航空機による神風特攻隊は、熟達したパイロットがいなくなったため、経験のないパイロットでも体当たりなら戦果を上げられるだろうという発想から生まれたものである※。しかし、繰り返し出撃をすることがなく、最初の実戦経験で死に至るため、空戦の経験を積んで技量が向上することがあり得ず、戦果はほとんど上がらなかったのが実情なのである。
※ そもそも対艦用の航空爆弾は、一定の速度で艦船に激突して装甲を破って内部に飛び込み、遅延信管で爆発して大きな損害を与えるようになっているのだ。航空機に積んだまま激突しても、装甲を突き抜けることができず装甲の外側で爆発するだけなので大きな損害を与えることはできないのである。
そればかりか、航空機が艦船に激突したときに、航空機の機体が衝撃を吸収してしまい、信管が作動せず爆発しないこともあったのである。
そのため、一部のパイロットは敵艦に突入する前に爆弾を投擲した。そして、「事前に放った爆弾が敵艦に命中したらそのまま帰還してよいか(爆発の効果を上げるため燃料は満タンにしていたので、帰還することはできた。)」と上官に確認したところ、そのまま敵艦に突入しろと命じられたという。
そして自殺攻撃の引き換えとして、熟練パイロットが育つことがなくなったのである。これは大きな損失であった。彼らが、体当たりなどに参加していなければ、熟練を積んで戦果を上げることもあり得たのである。
(オ)実際に“戦果”はほとんどなかった
米軍側の公式記録によると沖縄戦における米軍の被害は撃沈36隻、損傷368隻であり、そのうち特攻によるものは撃沈26隻、損傷164隻に過ぎない※。これに対して、沖縄戦に参加した特攻機は約1,800機、搭乗員は約2,600名と言われている。70機に1機が米軍艦船を撃沈したにすぎないのである。
しかも、この他に直掩機にも大きな被害が出ていたのだから特攻関連の日本側の損害はもっと大きいのだ。
さらに言えば、特攻機が侵害を与えた艦は小型のものが多かったのである。上図は、“The Official of the U.S.Navy in World War Ⅱ(米海軍作戦年誌)”の一部である。これによると沖縄戦における特攻による被害は、撃沈が掃海艇1隻で、他に沈没に至らない損害が6隻とされている。
結局のところ、特攻などというものはたんなる精神主義から生まれた、兵器としても不合理なものに過ぎなかったのである。
イ 優秀な戦闘機、優秀なパイロットは温存されていた
また、優秀な兵学校卒業者は直掩機での任務に就くことが多く、特攻機は予備学生や予科練の未熟なパイロットが就くことが多かったのである。兵学校卒は、本土決戦のために温存されていたのだ。
これは、使用機体についても同じで、特攻には当時としてはすでに時代遅れになっていたゼロ戦などが主に用いられ、紫電改や疾風(※)などの優秀な戦闘機のほとんどは温存されていたのである。酷いケースになると赤トンボと呼ばれていた九三式中間操縦練習機が特攻に使われたことさえあったのである※。
※ 古川薫「君死に給うことなかれ 神風特攻龍虎隊」(幻冬舎2015年)などによる。なお、吉川和篤「最強戦闘機ながら最後は特攻機にも「疾風」現存唯一機の“ウワサ”吹き飛ぶ 保存状態ヨシ!」によると、疾風は 3,577 機が生産されたが、疾風によって特攻作戦で死亡したパイロットは 122 名だったとされている。
練習機に重い爆弾を積んでいたのでは、飛ぶことさえやっとだったろう。優秀な敵戦闘機に襲われればひとたまりもない。このような特攻に戦果が期待されていたはずはないだろう。彼らはただ、闘っているという国家の精神主義のために殺されたのである。
ウ それは志願などではなかった
特攻は形の上では志願という形式をとっていた。もちろん、志願は形式だけであって、実際は命令であった※。
※ 根本順善「敷島隊 死への五日間」(光人社NF文庫2003年)、桑原敬一「語られざる特攻基地・串良」(文藝春秋2006年)、神立尚紀「日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく…」、2019年8月18日中日新聞「『特攻』のメカニズム2(1)勇士の反逆」など参照
また「池上彰の戦争を考えるSP “特攻”とはなんだったのか」で、元特攻隊員の桑原敬一氏が明確に「志願じゃないんです。私から言わせると純然たる命令だったと。」
「いわゆる特攻を推進して指名した人たちは士官です。エリートなんです。だいたい兵学校での連中なんです。そういう人たちは、自分たちは(特攻に)出ない。大西瀧次郎だとかなんとかって言いますよね。だけど大西さんだって出ない」と言い切っておられる。
志願という形をとったのは、それを命じた者たちの責任逃れの手段であった※。
※ 鴻上尚史「特攻隊員は『志願して死んでいった』のか」など参照
また、知覧特攻平和会館が絶対に触れようとしないことがもうひとつある。それは、機体の故障などで不時着したりして生還したパイロットが国からどのような扱いを受けたかである。彼らは国家から徹底して卑怯者扱いされ、屈辱的な取り扱いをされた※のである。
※ 大貫健一郎ほか「特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た(朝日文庫2018年)」、日高恒太朗「不時着」(新人物往来社2004年)など参照
もし、特攻が本当に「志願」だったのなら、なぜ生還者がこのような扱いを受けたのであろうか。
エ 遺書には検閲があり、本当のことは書けなかった
特攻隊員の遺書や絶筆をあれだけ数多く展示している知覧特攻平和会館が、まったく触れていないことがある。それは、当時の遺書などは上官の検閲を受けるということである。そのため建前しか書けず、本音は書けないのである。五味川純平氏の「人間の条件」の中に、遺書を書かされた初年兵で、検閲を受けることを知らずに本音を書いて、上官から処罰を受ける場面がある。
こんなことを言うと右翼の方からは反発を受けるが、右翼マスコミの筆頭の産経新聞で、元予科練の高橋淳氏が次のように言っておられるのである。なお、高橋氏が挙げておられる「永遠の0」の作者である百田尚樹氏は、「南京大虐殺は蒋介石の宣伝だった」というフェイクを主張をしておられる方で、折り紙付きの右翼である。
でも、最近だと「永遠の0」。いままで戦記はいろいろ読んだけど、あれが一番真実に近いね。すごく良くできてる。
例えば「特攻隊に志願するやつとかいない」とか書かれてたかな。当時は特攻隊がたくさんいたでしょ。でも、やっぱり人間は誰でも死にたくない。上から「お前とお前」と言われるから、軍の命令だからしょうがなく行くだけの話だよね。特攻隊の遺書が靖国神社や鹿児島の知覧基地に残ってて、遺書には「喜んで死んでいきます」とか書いてある。だけど「死にたくない」とは書けないでしょ。検閲もあるし。だから僕に言わせれば、ほとんどがやらせに近い。
※ 産経ニュース「苦しかったろう、特攻「喜んで死んでいきます」…死にたくないとは書けない、検閲もあるから」(2015年1月12日)
知覧特攻平和会館が、笑顔の特攻隊員の写真を掲げる一方で、数多くの遺書を展示していながらそのことに触れようとしないのは、なぜなのであろうか?
オ 特攻を命じた者たちの多くは責任をとらなかった
特攻隊を死地へ送るとき「我々も後から行く」と言って、部下に死を命じた者たちがいた。また、特攻は、決して第一線部隊からの発案ではなかった。それは参謀本部、軍令部など政府中枢から発案されたものである
知覧特攻平和会館にも「写し」が展示されているが、特攻作戦を許可する御名御璽(天皇の署名と印影)のついた公文書も存在している。特攻の実施は、天皇が最終責任者として決定しているのだ※。
だが、彼らを死地に追いやった者たちは、ごく一部が敗戦時に自決したり、特攻に赴いたものもいたが、ほとんどのものは責任を取ろうとはしなかったのである。
※ 天皇は、敗戦後は一転してマッカーサーに阿り、敗戦直後に書かれた「独白録」では、部下の戦争責任を暴きたてて自らには責任はないということを言い募るのに汲々としていた。
これは「戦争を始めたのは、東条や松岡、さらには国民の責任であり、自分には責任はないのだから自分だけは東京裁判の被告にしないで命を助けて欲しい」という意識が透けて見える文書である。
また、天皇はGHQに対して、沖縄の長期占領を勧めたり、天皇制を否定する政党の弾圧を依頼したりしている。
そればかりか、1975年には戦争責任について問われて、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」
と答えているのである。天皇は、自らの身を護るために多くの国民を死に追いやったことについて全く責任を感じていないのである。
そして、その一方で特攻隊の生き残りは、戦後の民主化の中で狂信的なファシストとして非難を浴び、差別されて社会の片隅で生きていくしかないケースもあったのだ。
これもまた、知覧特攻平和会館が、決して語ろうとしないことのひとつである。特攻のような非人道的なことを命じた者たちの責任についても、彼らは黙っているのだ。
カ 国民の生命を守ること以上に大切なものなどない
これは、帰りのバス停近くで見かけた標語である。もちろん、交通安全の標語で特攻とは関係はないと思う。しかし、特攻平和会館で特攻隊員の遺書・絶筆に触れてきたばかりの私の心に響いた。
「いのちはね大切なんだよ何よりも」。その通りだ。国民の生命を守ることよりも大切なことなど何もないはずなのだ。だが、戦前はそうではなかった。夫を後顧の憂いなく特攻任務に就かせるために、子供を道連れに死を選ぶ女性が美談とされた時代なのだ。そして、特攻平和会館では、今もそれが美談として扱われている。
これはまさに教育勅語の世界である。かつて安倍内閣は、再び教育勅語を復活させようとしている※。「いのちはね大切なんだよ何よりも」、安倍元総理にはこの当たり前のことが分からないらしい。
※ 2017年3月、当時の安倍内閣は教育勅語が「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との答弁書を閣議決定した。教育勅語の本質は「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」にある。
要は、国家の戦争行為に対して天皇のために生命をささげよと言っているのである。ここに、自民党・公明党政権や知覧特攻平和会館が特攻隊を美化する真意があるのだ。