1 追悼の辞から“復興五輪”が消えた
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筆者:平児
朝日新聞が報じたところによると、「東日本大震災10周年追悼式」で、菅総理の式辞に“復興五輪”についての言及がなかったという。
五輪に関しては、橋本五輪組織委会長も、3月5日に「無理やり、何が何でもという捉え方をされているかもしれないが、決してそうではない」と微妙な発言をしていたこともあり、政府が五輪中止を模索し始めたのではないかとの観測が生まれていた。
そんなこともあり、前年の献花式で安倍総理が“復興五輪”について触れていたにもかかわらず、菅総理の式辞で“復興五輪”に触れられなかったことが注目を浴びたようだ。
2 政府に対して“憶測”せざるを得ない状況は民主主義国家に相応しくない
朝日新聞DIGITALの記事「官房長官しどろもどろ 式辞から「復興五輪」なぜ消えた」によると、その理由を尋ねられた加藤官房長官は、しどろもどろだったという。
たんに、安倍氏と菅氏の五輪に対する思いの違いであれば、「深い意味はない」と答えればよいだけのことだ。それが、質問を受けて狼狽したため、さらに記者団の“疑惑”を深める結果となった。
政府としては公表はできないが、五輪について積極的に言えない理由があるのではないか・・・すなわち、中止について模索を始めたか、あるいは政府内部ではすでに中止を決定しているのではないか、記者がそのように疑ったとしても無理はない。
これを聴いて私は、旧ソ連の共産党大会の書記長の演説を思い出した。記者たちは、長時間に渡る抑揚のない退屈な演説を、称賛に値する精神力と忍耐力を発揮して注意深く聞いていた。前回とのわずかな差異やちょっとした言葉尻が、重大な方針の変化の兆しを示すことがあるためである。
本来、社会主義とは民主主義が徹底された社会である。それにもかかわらず、政治家が自らの考えを分かりやすく国民に伝えようと努力しないのであるから、当時のソ連は社会主義の名に値しなかったことは明確である。
日本の自民党も、政治家が自らの考えを、正確にかつ分かりやすく国民に伝えようとしないのであれば、それは民主主義国家の政府に相応しくないというべきだ。政府の考えを国民が“憶測”しなければならないというのは、民主主義の名に値しない異常事態と言うべきだ。
3 自民党政府は、五輪についての自らの考えを国民に示せ
加藤官房長が、記者からの質問を受けて周章狼狽したというのは、何かを隠していて、そこを突かれたからであろう。
外交や刑事捜査などに関してであれば、ある程度、隠さざるを得ないこともあるだろう。それは分からないでもない。だが、五輪を開催するかどうかなど、国民に隠さなければならない理由があるとは思えない。
国民は、コロナ感染防止のために、経済活動を止めて貧窮状態になっていたり、必要な外出も自粛したり、文化活動もやめるなど、大変な苦労をしているのである。それが、政治家の見栄のために五輪を実施して、元の木阿弥になるのでは救われない。
こうしている間にも、五輪組織委の維持のためだけでも、多額の国費(税金)が消費されている。そして、国民の窮状はますます悪化してゆく。
五輪を止めるのであれば、止めると早く国民に知らせて、五輪のために使われている国費を、コロナによる国民の窮状の救済に転用するべきだ。